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バー 『FACTORY』小咄 最終回 |
「そうらしいね」 しかしF氏の返事は素っ気なく、急に話には興味を失ったようである。感心が他に移ってしまった顔つきえおしている。 会話が途切れた。 カウンターの内側で、マスターが手際よく2つの仕事をする。先ず、シャンディガフのグラスが女の前に出される。 話の続きが折られ、間がもたなくなったT氏がブルドッグのお替わりを注文する。 「ちょっと待ってね」 と言って、マスターは次の仕事にかかっている。程なく、馥郁<ふくいく> たるコーヒーの香りが漂いだした。 「これは、サービスです」と言って、マスターがさらにのせたコーヒーカップを女の前に差し出す。 女が白磁のような形のいい歯を僅かにみせて、「ありがとう」と言う。 「いえ、いえ。どうぞ」 マスターの方が余程、喜々満面である。 ムムムあっ、噂になった件のその女ではないか!? はなから、しげしげと見惚れてしまったT氏が漸く気づいて、確かめるようにF氏に顔を向けた。F氏は素知らぬ表情だ。 マスターからブランデーの数適を落としてふるまわれてコーヒーのカップを手にして、F氏はF氏で改めて考えはじめていた。 ムムム可怪しいな。午後8時、しかも日曜日に、このような際立った女性が たったひとりで曙町界隈のバーに来るとは。、、、、、、雨も降り出しそうなのに傘 も持っていない。また、音程が狂ったピッコロのような音が鳴って、若い男が やって来るのだろうか。一体何者か?、、、、、、。 そこまで考えたとき、恰もそれにこたえるかのように女のバッグの中で音が鳴り、程なく自動ドアが開いて男が入って来た。 精悍な感じの若いその男は、きびきびとした身のこなしで女の隣に腰を下ろすと、すぐにメモとペンと取り出して、女と聞きとれない小声で話はじめた。 男は何も注文せず、店側のことは全く無視して話を続ける。メモに何かを 書いて女に示し、その女の名前と思われる「ウェイさん」と呼ぶ声だけが高くなり、聞きとれる。 奥の席で、無口になったT氏とF氏。入口に近い席で、ひそひそと話をする 女と男。その2組の客の間に立って、暫く黙っていたマスターが、「何かおつくりしますか」と男に声をかける。 「いや、もう行きます」 と男が言って、ふたりは立ち上がった。 男が支払い、僅かな額の領収書を受け取って外へ出て行こうとしたところで、 店に入ってくる花屋のS氏と鉢合わせとなった。 瞬時に、そのおんなであることが分かったS氏は、たじろぐように後退りして、先を譲る。 そして、降り出した冷たい小雨の中を足早に立ち去って行くふたりの後姿を ドアの外に佇んで見送った。 店の中ではT氏が、 「今の彼女が、噂の女性でしょ!。、、、、、、凄い美人ですねぇ」 と言って溜息をつき、酔いも手伝ってよれよれ顔になっている。 「びっくりしたな。また、来たんだ!」 S氏は大声をあげて店の中にくると、どかっと椅子に腰を落とした。 そして、 「実は今日の昼間、俺はあの女を見たんだ」 と言った。雨の濡れあともふかず、顔が興奮で赤くなっている。 そのあと、S氏がバーボンのグラスを片手に、得意気に何度も繰り返して 言ったのは、次のようなことだった。 ムムムその日の昼間、『FACTORY』から近い大岡川に架かる橋のたもとで スーツを着た私服と制服の警官、総勢5、6人の男達の中に、その女がいるのが見えた。丁度信号待ちの車の中から短い間の観察ではあったが、女は男達と 一緒の仲間で、つまり、女は警察の者だったのだ。美人の女性警察官が男達の中にひとり。スタイルもいいし、かなり目立った。通りすがりの者も振り返っていた。あれから、きっと近くのどこかに捜査か逮捕に向かったのではないかと思うーーーと。
それからの後日談である。 12月に入り、『FACTORY』の忘年会があった。常連客との、恒例行司である。 料理屋で1次会を住ませた後、2次会は『FACTORY』を貸し切りにして 軽く行うものである。日曜ということもあって、2次会まで流れてきたのは常連中の常連が6、7人というところ。当然世話をするのはマスターとトオル君 ではあるが、音外に呑んでいるので、みな客同士みたいなものだった。 やがて話も忘年会の総仕上げとなっていき、誰ともなく言い出した“その 女“のことが、最後の話題となった。 「2005年、今日の『FACTORY』のトップニュースでーす」 と、トオル君が楽しそうに盛り上げる。 「そうだ、トップニュースだな」、「正に」、「とび抜けてハイライト」等々、 それには誰しも異論はない。しかし、女の身分については意見がまちまちだ。 「あのような美人で、お洒落な警官がいますかね?」 「警官だよ.間違いなく、みかけたんだから」 「それにしても、腑に落ちないところがあるな」 「仕事で霞ヶ関の省庁に行きますが、最近は美人の官僚は結構いますよ」 「それは本庁のエリート達の話でしょ。仮に神奈川県警の者だとしても、エリートは第一線の現場には出て来ないし」 「あの若い男は警察らしい雰囲気はありましたね」 「警察の者がバーで待ち合わせはしないでしょ」 「でも普通に離せばいいものを、ひとに聞こえないような声やメモでやりとりしていましたよね。女の名前をウエィさん?とか呼んでいるのは聞こえましたけど、、、、、、」 「ウエィさんと言ったのですか。中国人の名で衛<ウエィ>というのがありますよ」 とホテルマンのK氏が言って、その字を示した。職業ゆえの知識である。 「この横浜に、中国の女の警官なんて、ありえないでしょう」 とトオル君。 「いや、あり得る話かも知れない」 とフリーレポーターのA氏が言うには、「中国政府から派遣された公安当局 のエリートということは、あり得るでしょう。中国人の不法滞在とか犯罪の 実態調査、その現地視察の為に県警、或は入国管理局のGメンと行動をともにしているということは、大いに考えられるしな」 「なる程、もしそうだったら腑におちなかったことも解消するね。ここは 横浜だから船による寄港地上陸の不法滞在者がいても可怪しくないし、この 辺はスモール新宿みたいだしね」 と自称物書きのF氏が応じた。 もはや誰も異を唱える者はなく、内心は謎の女のままがいいと思いつつ、 皆機嫌よくお開きが近づく。 「玉って飲んでいるだけで、いろいろろドラマを聞いたり見たりできて、 昔も今も、やはりバーはいいね」 歳を省みず、強いジンのストレートを口にしてF氏が言う。 「その女、また、来ますかね」 と誰かが言う。 小雨の降る中を去ってひと月になるが、その後、『FACTORY』に姿を見せていない。 「また、来てくれるでしょう。きっと」 こういちマスターが笑顔で言う。
(おわり)
お断りーーーーーーこの「バー『FACTORY』小咄」に登場した光一マスターとバーテンのトオル君、それに胡散臭いF氏こと、わたくし黄 素鐘<ファン ソジョン>以外は架空の人物であります。 それから、もうひとつ、、、、、、その女にどことなく似たリトグラフの絵が、 今も『FACTORY』の壁に掛かっているのであります。
(ほんとうに、おわり)
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バー 『FACTORY』 小咄 その4 |
それから半月程して、その女は再び、『FACTORY』にやって来たーーーー。 その夜は、夕暮れどきから空は厚い雲に覆われはじめ、雨が降り出しそうな 冬の日曜日のせいか、『FACTORY』もさすがに客足が鈍く、二人の客がいるだけであった。某業界紙の出版社に勤めている30歳前半のT氏と、親ほど歳がかけ離れたF氏、それにカウンター内にはマスターがひとりだけ。トオル君はお休みの日である。 T氏は社内旅行の帰り途、土産の干物や漬け物を持って立ち寄ったのだと言い、明るい大きな声で韓国の印象を報告していた。 「済州島に行ったのですか。今どき社内旅行とは珍しいのでは。社員厚生がちゃんとした会社だね」 と感心するF氏。 「いいですね、韓国へ社員旅行とは」 気心の知れた客達と年1回伊豆あたりの宿に出掛けるマスターが、羨ましがってみせる。 「陽よ陽よ 赤い陽よ キムチの汁で飯食べて 長鼓(チャング)鳴らして 早よ出てこい、、、、、、か」 キムチのお裾分けを一切れ口に入れて、F氏が謡うように言う。 「なんですか、それ韓国の民謡ですか?」 とT氏がたずねる。 「冬の日に太陽が雲に隠れて寒いので、早く雲から賑やかに出てきておくれよ太陽さん、という朝鮮の人の詩だけど。陽は朝鮮の希望の光で、雲は侵略するどこかの国、実はそういう意味合いだったと、、、、、、少年の頃の空覚えだけどね」 F氏は少し酔っていて、饒舌になりかかっている。 「Fさんも韓国へ行ったことがあるんですか」 「いや、ない。ないですよ。済州島はいいらしいね」 「いい所ですよ。朝鮮動乱の前に何万人も死んだすごい事件があったそうですが、、、、、、。ガイドが日本の方でしたら是非行ってみたらとすすめるので<イ.ジュンソプ展示館>というところに行ってきました」 「イ. ジュンソプ?画家の?」 「そうです。よく知っていますね。韓国へ行かれたでしょう!?。展示館には<黄牛>とか、僕もすごいと思う絵がありました」 「イ. ジュンソプは、たしか日本に、、、、、、」とF氏が言いかけたとき、自動 ドアが開き、その女が入って来た。 タートルネックのスウェターにジャケットもスラックスも、上から下まで濃いグレー一色の装いである。それはそれで、きりりっとして美しい顔立ちに似合っている。 最初のときと同じように、入口の近い鉤のところに腰を掛けた。 F氏とマスターは、おおっと口には出さぬ驚きで、一瞬お互いの目を見合わせた。 その女のことは最初に来たときから暫くは、その夜居合わせた男達の間では もとより、聞き及んだ他の常連客も加わって、何度も酒肴に供されていた。 舞台女優ではないかとか、芸能界のプロデューサーではないのか。挙句の果には、卑しからざるお方のお忍びだったかも、、、、、、などなど。 半月を過ぎてどうやら話題から消えた『FACTORY』に、その女は再び姿をみせたのである。 ショルダーバッグは黒い同じ物のようだが、頭には何も被ってはいない。いくらか日焼けしたようにみえる。 「コーヒー、ありますか?」 と女が言った。 「コーヒーはお出ししていませんが、、、、、、」 とマスターが申訳なさそうに言う。 コーヒーが出せないわけではない。常連の女性客などがアルコールのあとに特に頼めば、香りがいいものを煎じてくれることもある、アウトメニューである。その女がコーヒーがあるのかと聞いたのも無理はない。『FACTORY』は 他にあまり見かけない1、2階重層のバーであり、それを知らない者が外から見て、2階はレストランか喫茶店と思っても当然である。 1度はコーヒーの注文を断ったものの、マスターはすぐに、 「お作りしましょう。少しお時間をいただけますか」 と言った。 それはそうだろう、とF氏は内心で頷く。 店も混んではいないし、その魅力で話題をさらった女性がまた来てくれたのだ。 いいではないか、お出しして上げなさい。今宵もまた、ひとしお凛とした美しさではないか。コーヒーだって飲まれてみたいと思うだろうよ!。 しかしその女は、 「いえ、結構です。シャンディガフを下さい」 と言って、口を噤んで女にみとれていたT氏をまともに見返した。黒く深い瞳をしていて、それは知性ある者の目付きである。 慌てて目を外したT氏は、手元のグラスに入ったブルドッグを一気に飲み干した。もともと血色のいい顔が一段と紅潮している。 T氏は話で聞いたその女であることにまだ気づいてはいない。視つめられて いささか動揺した内心を隠すように、 「、、、、、、そうです。画家の奥さんは日本人だそうです」 と言って、済州島の話を続けようとする。
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バー 『FACTORY] 小咄 その3 |
やがて男達の言葉がめっきり少なくなり、時刻がすでに12時を過ぎた頃、 M氏がそれではお先にと言って立ち上がりかけたとき、突然 “ピルピユッ、 ピルピユッ“と、ピッコロを吹き損ねたような音が短く鳴った。 聞き馴れないその音は、女のバッグの中からのようだった。 ムムムムうん?、なんの音?、、、、、、 男達が一斉に女の方へ顔を向ける。 女はバッグを手にし、何ごともないかのように、 「お幾らですか」 と言って静かに椅子から立ち上がった。その物腰を、ここぞとばかり男達が無遠慮に視つめる。 その時、自動ドアが開き、ひとりの男が入って来た。地味な黒っぽいスーツを着た頑健そうな身体と、目にやや強い光を宿した若い男である。 女に目礼し、近寄って何やら耳打ちをし、そしてマスターをふり向き「精算をして領収書を下さい」と言った。 釣銭と領収書を受け取り、ふたりは『FACTORY』を出て行った。 帰りそびれたM氏も再び腰を下ろし、男達はお互いに顔を見合わせた。一様に好奇心を曳きずった表情をしている。 『過格好いい女性でしたねぇ』 バーテンダーのトオル君が最初に感嘆した声を出すと、 「いい女だったなぁ、、、、、、」 「マスター、初めての客なの?」 「人妻かなぁ、、、、、、」 「きれいだけど、ちょっと怖い感じもしたな」 今までの店内の空気は一気に吹き飛んで、男達はわいわいがやがや。スコッチのシングルモルト、アーリータイムス、ジンライムやボルドーのグラスワイン、それぞれの飲みものに、女のことがこれ以上の酒肴は無いといった様である。(神代の大昔から、酒呑みの男同士が集まって女の話になれば、他愛ないことにも殊更騒いで興じるものなのだ)。 「やくざ関係じゃないかな」 と花屋のS氏が自信あり気に言う。 「いや、うちにはやくざは来ない。来ないようになっています」 商店街組合の役員をしているマスターが、即座に打ち消す。 「でもさ、さっつきの男はそんな感じしない?女は姐さんとか、、、、、、」 「それは違うと思うね。やくざは、あの程度の小額の領収書なんか持っていかないよ」とフリーレポーターのA氏が言う。 「そう言われればそうだな。、、、、、、クラブのママかな」 「それも違うでしょう。クラブのママさんだったら、もっと愛想が良い筈」 とマスターが断言する。 「ちょっと気取ったところがあったし、外資系商社のキャリアウーマンみたいですね。Fさんはどう思いますか」 保険セールスマンのM氏が、年配のF氏を立てて意見を求める。 「さあ、どうですかね、、、、、、。あの笛のような音、あれは携帯電話ではないでしょう。それに、ショルダーバッグが洒落た帽子や服には釣り合わない頑丈そうな持ち物にみえたし、何か少し変だな。商社勤めだとしたら、ふたりの態度からみて、男はさしずめ女の部下。キャリアウーマンが、自分の酒代を部下に支払いをさせるかな、、、、、、」 F氏は自称物書きに恥じないように、さも尤もらしく分析をしてみせて、 「僕にも見当がつかない。何ものでいらっしゃるやら、分からん」 と言って、意味あり気に鼻先きで ふふ とわらい、ワインをひと口ごくり呑んだ。 そのあとはひとしきり、男達はああだこうだと気ままにしゃべり騒いだ挙句、 「まあ何にせよ、いい女だった。参ったな」 と、すっかり元気づいたS氏の嬉しそうな感心ぶりが結論となって、常連客の秋の夜の宴にようやく幕が下りた。 彼らが帰ったあと、夜勤勤めなどの次なるお客を待って、バー『FACTORY』 の営業は午前4時まで続く。
つづく
次回予告
女、また現れる。そして、話は韓国に。
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バー 『FACTORY』 小咄 その2 |
秋深きその夜は、1階の席で常連の3人の男がマスターや、やや童顔で客に人気があるバーテンダーのトオル君を交えて、世間話をしながら飲んでいた。 40代半ばの雑誌のフリーレポーターA氏、50歳とは見えぬ、若々しい損保会社のセールスマンM氏、もう一人は、今は無職で物書きと自称する胡散臭い60代後半のF氏。大体、遅い時間を選んで飲み来る連中である。 自動ドアが開き、なりのいい女がひとり入ってくる姿に、男達はそれとなくちらりと目を向ける。 その女は、すっと店に入ってくるなり、何の躊躇いもなく入口に1番近い椅子に腰を掛けた。 そこは鉤の部分の席で、外の通りへ背を向けることになるが、横並びの男達に、たった女ひとりでまともに顔を曝すことになる。 しかし、その女はまったく臆する素振りもなく、正にそのとおりに、幾分目深に被ったモスグリーンの中折れ帽師(ボルサリーノハット)をとり、顔を真直ぐに露にすると、一瞬素早く男達や店内に視線を走らせたようである。 額が高くて知性的な、しかも色白の艶やかな美貌の持ち主である。30歳前後であろうか。背丈もあり、ダークグリーンに黒い縦縞のスーツに包んだ、決して華奢ではない躰つきから、どことなく威厳みたいなものも感じさせる。 『FACTORY』は、外の通りから店内の様子が窺い易く、ふと通りすがりに気安く入ってきたものなのか。それにしても、『FACTORY』では滅多にない、いや先ずない、出色の女性客である。 その容姿や仕草をみて、マスターのこういち氏の対応もさすがそつが無い。 間を計り、バーテンのトオル君には任せず自らおしぼりとグラスの水を出して、 柔らかい声色で注文を聞く。 女は、マスターの背にあるボトルの棚を形ばかりに一瞥すると、 「ペルノの水割り、頂けませんか」 と言った。 客の3人の男達は、それまでより少し声を低くして、<小泉劇場>顛末の揶揄話を続けてはいるが、それぞれが素知らぬ振りで女を盗み見し、女が注文するのをちゃんと聞いている。 店の外には徐々に夜更けが忍び寄り、さすがその時刻になると、人の往来も車の流れも通りから急に数を減らしていく。 2階の若いカップルが先ほど帰ったあとは客が途絶え、店内は1階の6人だけとなっていた。 女は時折ペルノの白濁したグラスに手を伸ばし、静かに座っている。まったく口をきかず、脇に置いたショルダーバッグから出した小さなノートを視つめながら何か考え事をしているようにみえ、際立った美しさのせいもあって、人を寄せつけない雰囲気である。 しかしマスターにとっては一も二もなく歓迎すべき客には違いなく、注文の2杯目のグラスを出しながら、笑顔でそれとなく、お近くですかと声をかける。が、女は目を上げ、僅かに唇の端に微笑みを浮かべて無言の挨拶を返しただけだった。マスターもそれ以上の詮索をすることはできない。 男3人の客は、相変わらず話をしながら時にはつくった笑い声もあげているが、『FACTORY』は明らかに、いつにない空気に支配されはじめている。 5人の男達は普段を装ってはいるものの、もはや頭の中は、 ムムムムム女は何者だろう、、、、、 という思いに占められている。 そこへ自動ドアが開き、またひとり常連客である花屋のS氏が入って来た。 男5人が一斉に、 「おぉ今晩は。久し振り」 と声を揃えて迎えた。 「、、、、、あぁ、どうも」 もっとも古い馴染みだというのに、S氏は少し照れた様子で挨拶をして、遠慮勝ちに3人の男達の手前の椅子に腰を下ろした。五十の分別で、酔った勢いとはいえ客のひとりと口論めいたことになり、暫く『FACTORY』から足が遠のいていた所以のようである。 それゆえ男達は常連客仲間として、暫くぶりS氏に気を遣い、早速盛り上がる筈のところだが、そうはならない。そうはならないどころか、騒々しくするのはちっと、、、、、、という気配が店内に漂っている。隣のM氏がS氏に会釈して歓迎の意を伝えただけだった。 S氏もすぐに女に気づき、いつもとは違う妙な静けさの原因が、その女であることを感じたようである。グラスの中の氷をしきりにカラカラと鳴らしてバーボンを飲み、斜にちらちらと何度も上目づかいに女を見る。美しく毅然としている様に気圧されたよに落ち着かず、女に一番近い席にいるために居心地が悪そうである。
つづく
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バー 『FACTORY』 小咄 |
バー 『FACTORY』 小咄
その女が、はじめて横浜のバー『FACTORY』に来たのは、 秋も深まった日の肌寒い夜の11時頃だった。
バー『FACTORY』は鎌倉街道に面し、横浜中郵便局の真向かいにある。 周辺には様々な飲食店や風俗店等もあり、夜中遅くまで人通りが絶えない。 裏2本目の通りが、いやゆる伊勢佐木町モールである。 『FACTORY』はバーとしては珍しく2階建てで、その屋根には赤、パープルピンク、白の3色看板が彩る。 しかしそれも、隙間なく立て込んだ曙町界隈の店として、かえって似つかわしい外見ではある。 店に入り、中からガラスの自動ドアと窓を透して外の通りへ目を遣れば、向い側に繁った街路樹や郵便局敷地の暗がりがみえ、行き交う車はともかく、場所柄としては案外に落ち着いた趣をていしくいる。 店内は1階が鉤形のカウンター席で、入り口に近い鉤の部分に二つ、奥へ横に延びる部分に7つの丸い椅子。2階は鉄製の螺旋階段を上って行くと、丸や四角のテーブルに15、6の椅子と鉢植えなどが置かれた、1階とは異なるフロアとなっている。 周囲の店が多々興亡を繰り返すなかにあって、港町横浜のバー『FACTORY』は、オーナーマスターの笠井光一氏が20年近く続けていて、店の名はそれなりに知られている。 『FACTORY』という店名そのものが、『カフェXXX』などと最近流行のネーミングとは違い、ニューヨークの下町にでもありそうな、古くもあり新しくもある独特の味合いがある。粋と謂うべきか。 客筋や客層に片寄りや傾向はなく、青、壮、老、男も女も職業もいろいろ。1、2本のビールを飲んでさっと帰る者、ウイスキーをちびりちびりと時間をかけて嗜む者、ピッツァを肴にカクテルを呑む若い女同士、大声で話す客、物静かな客、、、、、それこそ様々な人間が織りなす小さな坩堝の場、庶民的なバーなのである。 とは言っても、店内は明るくもなく暗くもなく、微妙に照らす天井のランプがフランス製のものであったり、座るところがくるりと廻る丸椅子がイタリアのカッシーニであったり、気づきにくいところに凝った拵えでなんとも小憎い演出がなされており、なによりも、00マスターのウイスキーについての造詣がが深く、棚には系統に申し分のない和洋のウイスキーを中心に豊富なボトルが並び、バーとしての、あるべき格はきっちりと保たれている。
つづく。
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